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妻が夢見るマイホーム 『漁師とおかみさん』

 以前、グリム童話から「ヘンゼルとグレーテル」を紹介したが、今回もグリム童話から家にまつわる話をピックアップしてみたい。「漁師とおかみさんの話」という掌編で、悪い魔女や狼が出てくるわけではないものの、なかなかにコワくておもしろい話である。話が次第にエスカレートしていき、最後に強烈なオチを迎えるという筋運びには、風船にどんどん空気を送り込んでいく様子を、ライブで観察しているような緊張感がみなぎっている。

 この話の意味するところは、『方丈記』を著した鴨長明の想いにも通じる部分があるかもしれない。住まいかたは、そのまま生きかたにも通じる。家も人生も、背伸びや欲張りが過ぎると、あまりうまくいかないようだ。

 「漁師とおかみさんの話」の主人公は、とある貧しい漁村に生きる、ちょっぴり疲れた中年夫婦である。「小便壺」に住んでいるというのだから、相当のボロ屋暮らしだ。住まいに手をかける余裕などかけらもないほどの、まさに食べるのに精一杯な暮らしをしているのだろう。

 ある日のこと。いつものように釣りに出かけた漁師が、穏やかな凪の海に釣り糸を垂れると、今までに見たこともないような大きなヒラメがかかった。そのヒラメが言うには、彼は魔法にかけられた王子なのだという。無欲な漁師は必死に命乞いをするヒラメを助けてやり、その日は手ぶらで家に戻る。そしてことの顛末をおかみさんに話して聞かせると、おかみさんは呆れかえってこう言うのだ。

〈「ああもう、だからあんたって人はイヤになるのよ。そのヒラメに、なんのお願いもしなかったの?」
「だって、なにを願えっていうんだ?」
「あたしはね、いつまでもこんな汚いところになんか住んでいたくないの! あんた、ヒラメのところへ行って、お礼に家をくれるように頼んできなさいよ」〉

 無欲で生真面目な漁師は、もちろんそんな無心は気が進まない。進まないが、ぎゃんぎゃんわめくおかみさんをなだめる術などあるわけがなく、しかたなく海へ出かけて行ってヒラメを呼び出した。

〈「出てこい、出てこい、出てきておくれ。ヒラメよ、海のヒラメさん。わしの女房のイルゼビルは、わしの思うようにならんのだ」
「それで、おかみさんのお望みは?」
「いやはや、わしがおまえさんを釣ったと言ったらな、女房のやつ、なにか頼めば良かったのにと言うんだ。女房はもうこんな小便壺に住むのはいやだ、小さな家が欲しいとぬかしよる」
「家にお帰りなさい。望みどおりになっていますよ」〉

 漁師が家に戻ってみると、なんとそこには小便壺のかわりに小奇麗な家が建っていた。おかみさんはニコニコ顔で新居の玄関に立ち、漁師の帰りをいまかいまかと待っていたのだ。

 上機嫌のおかみさんに連れられて家のなかを見てまわると、そこは今までのボロ屋とは雲泥の差だった。居心地のいい居間と寝室、台所があり、あらゆる野菜が植わった菜園までついている。しかも鶏とアヒルのおまけつきだ。漁師は「これで満足してやって行こうじゃないかね」と言うのだが、そのときのおかみさんの返事がふるっている。すました顔で「そうね、悪くないけど、一晩寝てよく考えてみるわ」と答えるのだ。

 その傲慢な態度からも予想される通り、おかみさんは半月もたたないうちに、この家に飽きてしまう。菜園や家畜までもらって暮し向きはだいぶ良くなったはずなのに、家も庭も窮屈すぎて息が詰まりそうだと訴えるのだ。彼女が夢に描くマイホームは、こんなありきたりの家ではなく、石造りの城に変わっていたのである。

 漁師はおかみさんにせかされるままヒラメのもとへ出向いて、今度は石造りの城をくれと頼む。最初にヒラメを釣り上げたときには美しく澄んでいた海は、いまでは暗く濁っていた。

 ヒラメは漁師の願いをかなえ、おかみさんは望みどおり、召使いが大勢いる立派な城を手にする。居室には金の椅子と机があり、裏手には手入れの行き届いた広い菜園と狩猟のできる庭園、牛小屋と馬小屋まで完備された素晴らしい城だ。だがこの大層な住まいにも、おかみさんはたったの1日で飽きてしまう。次に彼女が望んだのは、王さまになって豪華な御殿に住むことだった。

 ささやかな一戸建てから始まった漁師のおかみさんの願いは、石造りの城、国王の御殿、皇帝の宮殿、法王の聖堂……とどんどんエスカレートしていき、それをヒラメに頼みにいくたびに、海も荒れ狂っていく。やがてヒラメの力によって法王の位にまで登りつめたおかみさんは、金襴の衣をまとい、大きな冠を三つも戴いて、仰ぎ見るほどの高い玉座に納まることになった。聖堂には大小のろうそくがズラリと並び、脇には大司教と枢機卿以下大勢の僧侶が控え、各国の皇帝や王たちがおかみさんの足元にひざまづいている。おかみさんは人として望みうる、最高の生活と住まいを手にいれたのだ。だが欲に駆られたおかみさんは、これだけのものを得ても、まだ満足できなかった。もっとほかになれるものはないかと考え、とうとう神になりたいと言い出すのだ。

〈暗闇のなかに太陽が顔を出すのを見て、おかみさんは「あたしにも太陽を昇らせることができないかしら」と思いました。するとおかみさんはイライラしてきて、横で眠る亭主をひじで突つきました。
「あんた、ヒラメのところへ行っといで。あたし、神さまになりたいのよ」
「なんだって? おまえね、もう我慢して法王でいておくれ」
「イヤよ、あたしは神さまになりたいの。さあ、さっさとヒラメのところへお行き!」〉

 漁師は絶望にも似た思いを抱いて、稲妻が走り、高波が荒れ狂う海へと出かけていく。ふくらませすぎた風船は、ついにここで破裂するのだ。

〈「さて、おかみさんのお望みは?」
「いやはや……女房のやつ、神さまになりたいとぬかしよる」
「家にお帰りなさい。おかみさんは、もとの小便壺の前に座っているだろうよ」
こうして2人は、今も小便壺のなかに座っているということです。〉

 マジシャンがパチンと指をならしてマジックを終えるような、余韻どころか夫婦の心理描写すらない、唐突な幕切れである。全編を通して「女房が住まいを無心する→漁師が頼みに行く→ヒラメが願いをかなえる」という一定のリズムが刻まれ、それはあたかもラヴェルの名曲「ボレロ」のように、ピアニッシモで始まり次第にクレシェンドしていく。そしてエネルギーが頂点に達したところで、あっけなく幕を下ろすのだ。

 「漁師とおかみさんの話」は、分類するならば動物報恩譚のひとつと言えるだろうが、最後は決してハッピーエンドではない。神の座を願ったがために、すべてがご破算になってしまう。キリスト教思想のなかでは、神と人間は厳格に分離されている。人間以上のもの――つまりその人にとって分不相応なものを願えば、それが身を滅ぼす原因になってしまうのだろう。

 鴨長明は『方丈記』に「やどかりは小さな貝を好む。身のほどを知っているからである。自分もまた同様だ。身のほどを知り、世のさまを知っているから、願望を抱かず、欲望のために奔走しない」と記している。住まいかた、そして生きかたの根本は、洋の東西を問わず同じなのだと言えるのかもしれない。



文 倉林 章

参考文献
初版グリム童話集 吉原高志/吉原素子 訳  白水社
世界の歴史と文化「ドイツ」 池内紀 新潮社
目で見る世界の国々「イタリア」 広瀬三矢子  国土社