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静謐なる幸福空間 『風立ちぬ』

〈ひとつの主題が、終日、私の考えを離れない。真の婚約の主題――ふたりの人間がその余りにも短い一生の間をどれだけお互いに幸福にさせ合えるか? 抗いがたい運命の前にしずかに頭を項垂れたまま、互いに心と心を、身と身を温め合いながら、並んで立っている若い男女の姿――そんな一組としての、寂しそうな、それでいてどこか愉しくないこともない私たちの姿が、はっきりと目の前に見えて来る。それを措いて、いまの私に何が描けるだろうか……〉
 『風立ちぬ』の作者・堀辰雄が胸を患ったのは、まだ学生の頃だった。結核が死の病と恐れられていた大正時代、堀は病と向き合いながら学業を続けた。やがて才能が開花し執筆活動に入った堀は、昭和9年の秋、その前年に軽井沢で出会った女性と婚約する。だが彼女もまた胸を病み、その症状は掘よりもずっと重かった。この作品は、みずからも病を抱えた堀が婚約者に付き添って信州のサナトリウムに入り、ついには彼女を喪ってしまう「愛と喪失の日々」を、静かに振り返ったものである。

〈サナトリウムに着くと、私たちは、その一番奥のほうの、裏がすぐ雑木林になっている、病棟の二階の第一号室に入れられた。簡単な診察後、節子はすぐベッドに寝ているようにと命じられた。リノリウムで床を張った病室には、すべて真っ白に塗られたベッドと卓と椅子と――それからその他には、いましがた小使が届けてくれたばかりの数個のトランクがあるきりだった。ふたりきりになると、私はしばらく落ち着かずに、付添人のために宛てられた狭苦しい側室にはいろうともしないで、そんなむき出しの感じのする室内をぼんやり見回したり、また何度も窓に近づいては、空模様ばかり気にしていた。〉
 堀の婚約者が富士見高原療養所に入ったのは、昭和10年の7月だった。看病に回った堀も時々寝込んだりしながら、ともかくも2人の闘病生活は数ヶ月間続いた。だが看病の甲斐もなく、彼女は同年の暮れに亡くなってしまう。『風立ちぬ』はその翌年から、いわば婚約者への鎮魂曲(レクイエム)として書きはじめられた小説である。
 自分と亡き婚約者になぞらえた作中の登場人物「私と節子」も、やはり山岳地帯のサナトリウムに入所する。主人公のほかに付添いはなく、2人は身を寄せ合いながら、「普通の人々がもう行き止まりだと信じているところから始まっているような」生活をはじめた。それは擬似的な結婚生活であり、主人公が自分自身に対して、常に「どれだけお互いに幸福にさせ合えるか」という問いかけをしていくような、張り詰めながらも密度の濃いものだった。こうして主人公は、既に終わりの見えているところから歩み出していく愛情と、真摯に対峙していくのである。

〈私はその森を出た。大きな沢を隔てながら、向こうの森を越して、八ケ岳の山麓一帯が私の目の前に果てしなく展開していたが、そのずっと前方、ほとんどその森とすれすれぐらいのところに、一つの狭い村とその傾いた耕作地とが横たわり、そして、その一部に幾つもの赤い屋根を翼のように広げたサナトリウムの建物が、ごく小さな姿になりながらしかし明瞭に認められた。〉
 作中に出てくる「Fサナトリウム」は、堀たちが実際に入所した、富士見高原療養所である。このサナトリウムに親しんだ文人は多く、画家の竹久夢二もここで最期を迎えている。
 不治の病と恐れられていた結核は、決定的な治療法がなかっただけに、当時のサナトリウムは今でいう「ホスピス」に近いものがあった。伝染性という性質上、サナトリウムのほとんどが人里離れた場所に建てられ、世間から隔離されたが、当時の富士見高原療養所は、他のサナトリウムと少々趣を異にしていた。ここは作家でもあり医者でもあった正木不如丘の、私立療養所だったのである。

 スタッフ・設備ともに充実していた富士見高原療養所では、慶応大学医学部出身の医員10人と、同じく慶応で経験を積んできた優秀な看護婦が患者のケアに努め、料理長も東京から引き抜かれていた。内科のほか外科や眼科があり、結核性肋膜炎や脊髄カリエスなどの患者がここで加療している。病棟は平屋建ての日本間を7室備えた「石楠花」をはじめ、洋風の6人部屋を5室配した「龍胆」、2階建て・総坪数250坪の「白樺」があり、白樺の東端には2つの特別室(洋風病室/付添用の側室2つ・バス・トイレつき)があったという。文中に2階の1号室とあることから、『風立ちぬ』の主人公たちが入ったのは、白樺病棟だろう。
 ただし、私立であり、また設備が充実していることもあって、入院費はかなり高かった。1日あたり特等室では20円、一等室4円、二等室乙3円、3等室で2円である。当時の小学校教員の初任給が50円程度だったことを考えると、一般家庭の入れる療養所ではなかったことがわかる。当時の公立療養所は、療養所というよりは、治る見込みのない重症患者を隔離する場所だった。だがこの四季の彩りと良い空気に恵まれた山裾の療養所は、経済的に相当なゆとりのあった患者だけが、わりあい軽症のうちに集まる場所だったのだろう。堀の婚約者も、『風たちぬ』のヒロインも帰らぬ人となってしまったものの、富士見高原療養所は、「一度入ったら二度と出られない」という死の場所ではなかったのである。

〈私はとうとう一番外れの病棟にはいり、私たちの病室のある二階へ通じる階段を登ろうとして機械的に足を緩めた瞬間、その階段の一つ手前にある病室の中から、異様な、ついぞそんなのは聞いたこともないような気味の悪い空咳が続けざまに漏れてくるのを耳にした。「おや、こんなところにも患者がいたのかなぁ」と思いながら、私はドアについているNo.17という数字を、ただぼんやりと見つめた。〉
 死のために用意されたサナトリウムではなかったものの、『風たちぬ』のヒロイン・節子には、刻々と死の影が迫ってくる。まだ特効薬のなかった当時、結核の治療は、ひたすら安静と日光浴、栄養の摂取に終始した。入所した時点で「病院中でも二番目ぐらいに重症」と診断されてしまった節子は、最初のうちこそ小康状態を保つものの、次第に咳と発熱が続くようになり、少しずつ弱まっていく。そして彼女の死を暗示するように出てきた「17号室の患者」の死によって、主人公たちの「いくぶん死の味のする」生活は、次第に暗く突き詰めたものになっていくのだった。
 作者の分身であるこの物語の主人公は、堀と同じく小説家である。死に行く婚約者と共に過ごす生活のなかで、堀は次第に「書く」欲求を募らせていくのだが、彼の心が現在の危機的ながらも濃密な「婚約生活」に注がれている以上、小説という作り物の世界に没頭する余裕はなかった。そこで主人公は、今の自分たちをノートに書き綴ることにしたのである。
 ところがその小説が結末を迎えるよりも先に、節子が死を迎えてしまう。主人公が節子の死を現実のものとして受け入れられないせいか、『風立ちぬ』に節子の死のシーンはない。『風立ちぬ』の終章「死のかげの谷」は、節子の死から3年半が過ぎ、一人取り残された主人公が、人気のない山小屋で孤独を噛み締めるところから始まる。ここで主人公は、亡き人を追憶しながらリルケの「鎮魂曲」を読んで初めて、節子の死を受け入れ、きちんと理解するのである。物語をそんなふうに締めくくることが、主人公から節子への、そして堀から亡き婚約者への「鎮魂曲」だったのだろう。


文 倉林 章

参考文献
風たちぬ 堀辰雄 旺文社
現代日本文学アルバム「堀辰雄」 堀多恵ほか 学習研究社