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身は武蔵野の露と消ゆとも『徳川の夫人たち/続 徳川の夫人たち』


 大奥は女の牢獄――そう言ったのは、人気TVドラマ『大奥』に登場した大奥総取締(御年寄)の滝山である。最盛期は1000人超とも言われるほど多くの女性たちが暮らしていた大奥は、将軍のいわば私邸であり、その正室や側室、娘たちをはじめ、彼女らに仕える多くの女中たちが生活していた。ここでの厳格なしきたりは、三代将軍・家光の乳母で、のちに大奥筆頭にまで上り詰めた春日局によって確立されたと言われている。以来、大奥に入れる男性は、将軍と典医のみに限られた。
 女だけが住まう空間「大奥」とは、どのような場所だったのか。動乱の幕末にあって、その終焉をまざまざと見つめた皇女和宮を中心に、女たちの哀歓の場であった大奥を探っていきたい。

〈「家茂公は宮さまと御同年でございます。その十代のお若さで将軍職を負われ、ことに近頃のかまびすしき世の、むつかしき御政治に日夜お悩みのことあまりにお痛わしく、このたび和宮さまをお迎え遊ばされて、いかばかり上様の御身辺に春光うららかに耀やきわたるかと存ぜられます」
 弁舌さわやかに述べ立てる彼女に釣り込まれて、傍の御生母経子が口を挟んだ。
「将軍の御身辺は大奥の御女中方お仕えして、さぞかしお賑やかと思われますが、さほどおさびしいものでありましょうか」
「もうそれは厳しい御修行。大奥には朝ごとの御仏間御礼拝にお成りの折、御養母天璋院、御生母実成院さまへのご対面の後は、一切中奥にて小姓のみお付きいたし、老中たちと御政務にいそしまれ、御日課には御学問と武道の御稽古にて、こと井伊大老御在世中より、和宮さま御降嫁を願う儀がございましてから、ひとしお何事にもお慎みあって、もとより一人の御側女もこれなく大奥泊りなどひとたびもございませぬ」〉
 皇女と将軍の結婚によって徳川幕府を滅亡から救おうと考えたのは、大老井伊直弼だった。幕府方は孝明天皇に働きかけ、孝明天皇の妹・和宮を十四代将軍・家茂の御台所として迎えることに成功する。和宮にはすでに有栖川宮という婚約者があったが、それを押し切っての猛運動だった。だが和宮側が大奥でも御所風を貫いたため、武家の風習で動いている大奥では、大きな軋轢が生じたという。その狭間に立たされて、十代の少年将軍はかなりの心労を強いられたに違いない。それでなくても、若い将軍の肩には、黒船の来航や勤皇志士たちの動きといった内憂外患が、重くのしかかっていたのである。
 さて、引用部分に「母たちと面会したあとは一切を中奥で過ごした」とあるように、江戸城の本丸御殿は、表・中奥・大奥の三つに大別されていた。「表」は政治や儀式が執り行われる場であり、「中奥」は将軍が日常生活を送る場である。女性たちが暮らす「大奥」が将軍の私邸であるなら、こちらは官邸だと言えるだろう。将軍はこの中奥から将軍と典医以外は男子禁制の大奥へ渡り、家族との親しい時間を持ったのである。

 女性のみが暮らす大奥は、周囲を銅塀で囲まれ、内部をさらに三区画に区切っていた。第一区画は「御殿向」で、ここは将軍やその夫人たちのためのスペースである。第二区画は「お局向」と呼ばれ、位の高い女中が住んだ。長局と呼ばれるこの区画は、寮と言うよりは一軒の家に近く、二階建てで八畳間と十畳間がそれぞれ二つずつ、それにバスとトイレ、三十坪ほどの庭がついていたという。
 最も御殿向に近い棟は「一の側」と呼ばれ、位順に割り当てが決まっていた。最高職にある幾人かは個人でひとつずつ部屋をもらったが、それ以外は3〜5人の相部屋で住んでいる。彼女たちはここから七十間以上もある出仕廊下を通って、奥御殿に向かった。三の側以下には中級の女中が5〜10人で住み、こちらは女中部屋、お半下部屋などと呼ばれていたという。
 第三区画に住むのは、水汲みや駕籠かきなどの力仕事に従事する下級の女中たちで、二十畳ほどの大部屋に20人近くが寝起きしていたらしい。彼女たちのなかには高級女中が召し使う私的な女中も含まれていたため、大奥は自然と大人数を擁するようになっていった。三代将軍・家光から四代将軍・家綱の代替わりの際には、3000人以上もの女中が職を解かれて、それぞれの郷里に帰っている。時代が下るにつれて大奥の人数も減ったものの、和宮が降嫁した幕末の頃でも、400人近い女たちがここで暮らしていたのである。
〈なにしろ当時の奥御殿は七宝の間に将軍生母の実成院と別の一画に十三代将軍家定生母の本寿院がそれぞれ侍女を従えて居住する。将軍養母の天璋院の新御殿と呼ばれる一画の女中は上下総計七十三人、和宮の一の御殿付きの女官と女中が五十七人という複雑さに大奥全員はさらに大人数である。長局は京都からの宮のお供の女官たちや針女たちを迎えて、超満員で部屋割りがむつかしかった。〉

 降嫁の条件として「御輿入後も禁中通り」とした和宮側と、武家の風習を守る大奥側は、なにかにつけて衝突が多かった。上は上臈から下は針女まで、彼女らはさまざまな揉めごとに明け暮れていたのである。ことに和宮側が将軍正室の称号である「御台所」を厭い、「宮様」という称号にこだわりを見せると、両者の溝は埋めようもなく広がっていった。
 だが、大奥での女たちの争いをよそに、時代は急変していく。家茂は慶応元年(1865)に長州征伐の指揮をとるため大阪に出陣したが、翌慶応二年(1866年)の七月に、脚気のために急逝してしまう。享年二十一歳の若さ、和宮との結婚生活は、わずか五年間だった。これを機に、和宮降嫁の甲斐もなく、政情は一気に幕府討伐へと傾いていく。徳川家は瞬く間に朝敵という立場になり、その討伐軍の指揮官には、かつて和宮の許婚だった有栖川宮が立った。

 家茂の没後、和宮は帰京のすすめを断って江戸に留まり、落飾して静寛院宮と号した。そして慶応四年(1868年/明治元年)、かねてから大政奉還を奏上し、将軍職の辞退も願い出ていた十五代将軍・慶喜も朝敵と目されるようになると、それまで江戸には近づかなかった慶喜も、和宮と天璋院にすがらざるを得なくなった。
 和宮は慶喜の願いを聞き入れ、将軍慶喜の命乞いと徳川家の存続を願う嘆願書を書いて、土御門藤子に託した。十三代将軍・家定の御台所であった天璋院も、いまや官軍の主戦力となっている薩摩の出身であることを鑑み、徳川家の家名存続のために尽力する。夫たちはすでになく、和宮の兄・孝明天皇もない今、大奥のみならず幕府方の運命は、和宮と天璋院にかかっていたのである。
〈大奥にもその日のうちに伝えられた、この勅使の申し渡した五カ条のうち大奥をもっとも震駭させたのは、"江戸城接収"の一条だった。
 彼女たちはその日まで、たとえ政権は朝廷に移るとも、今までの徳川王朝とも言うべき栄華の夢は消ゆるとも、二百七十余年にわたるその居館たる江戸城は、最後の名残として自分たちの身と心を託す砦だと信じて居ただけに、呆然として魂の抜ける思いだった。〉
 江戸城の無血開城にあたり、一番の問題となったのは、静寛院宮と天璋院の処遇についてだった。悶着もあったものの、ついに二人は江戸城からの立ち退きに応じ、ここで大奥はその長い歴史に終止符を打った。和宮はその後、いったん帰京するものの、のちに「東京」となった江戸に戻り、明治十年(1877年)に三十二歳の生涯を閉じる。その亡き骸は和宮の遺言通り、夫・家茂が眠る芝の増上寺に葬られている。


文 倉林 章

参考文献
徳川の夫人たち 吉屋信子 朝日新聞社
続 徳川の夫人たち
和宮様御留 有吉佐和子 講談社