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雪の町に生きる女 『雪国』

〈国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。向こう側の座席から娘が立ってきて、島村の前のガラス窓を落とした。雪の冷気が流れこんだ。〉
 ノーベル文学賞にも輝いた、近代日本を代表する作家・川端康成。あまりにも有名な書き出しを持つこの作品は、『伊豆の踊り子』と並ぶ川端康成の代表作品である。1933年からさまざまな雑誌に分載され、完結版が出る1947年まで、戦争を挟んで実に14年もの歳月をかけて書き継がれた傑作だ。

 川端自身が「どこで切ってもいいような作品だ」と述べている通り、『雪国』は小説というより随筆に近く、物語のラストにも「落ち」らしい締めくくりはない。そういった制約のゆるやかさが、北国の美しい自然とヒロイン駒子の純情さを一層鮮やかに引き立て、読者を旅情と郷愁、そしてそこに色濃くにじむ日本情緒にいざなって行くのだろう。

 『雪国』の主人公・島村は、簡単にいうと金持ちの遊び人である。妻子がありながら1人であちこちを旅行し、仕事と言えば手なぐさみに西洋舞踏を研究する程度。「無為徒食の自分が真面目さを取り戻すには、山歩きが一番だ」と言って山開きを待って登山に出かけ、ふもとの温泉地に逗留して芸者遊びをするのだからいい身分である。
 ここで島村は、芸者の手伝いをしている駒子に出会う。女遊びにもずいぶん慣れていて、どこでも適当にうまくやるタイプの島村だったが、駒子に対してだけは今までのその場その場での恋愛感情とは違う、強い好感を抱く。まだ正式の芸者(温泉町の芸者なら、場合によっては客を取ることもある)になっていないからそう感じるのか、島村が駒子に持った印象は美しさや艶やかさではなく、「清潔さ」だった。その清潔さに惹かれ、最初は駒子と友情を育もうと思っていた島村だが、やはり関係を持ち、しばらく逗留したのち気ままに町をあとにする。冒頭の書き出しはそれから半年後の12月、駒子に会うために再び新潟を訪れたときの様子である。島村にとっては、初めての「雪国」で過ごす冬だった。

〈宿屋の客引きの番頭はちょうど火事場の消防のようにものものしい雪装束だった。
「そんな格好をするほど寒いのかね」
「へい、もうすっかり冬支度です。雪のあとでお天気になる前の晩は、特別冷えます。今夜はこれでもう氷点を下っておりますでしょうね」
「なるほどなににさわっても冷たさがちがうよ」
「去年は氷点下二十何度というのが一番でした」
「雪は?」
「さあ、普通七八尺ですけど、多いときは一丈を二三尺越えてますでしょうね」〉

 一丈3尺は約4メートル。温暖化の影響もあってか、現在では4メートルも降ることはまれになったが、『雪国』のモデルとなった新潟県(新潟県湯沢町)では、本来降るとなったらこれくらいの量の雪が降っていた。それを駒子が、こんなふうに言っている。

〈「でも二日降れば、すぐ六尺は積もるわ。それが続くと、あの電信柱の電燈が雪のなかになってしまうわ。あんたのことなんか考えて歩いてたら、電線に首をひっかけて怪我するわ」
「そんなに積もるの」
「この先の町の中学校ではね、大雪の朝は、寄宿舎の二階の窓から、裸で雪へ飛び込むんですって。体が雪のなかへすぽっと沈んでしまって、見えなくなるの。そうして水泳みたいに、雪の底を泳ぎ歩くんですって」〉

 新潟をはじめとする北国の、殊に豪雪地帯と呼ばれる地域には3階建ての家が多い。1階を駐車場、2階と3階を住居にして、雪の季節に備えるのである。2階建て(高床式で1階の床が道路よりも1メートル近く高い)の家には2階に冬用の玄関があり、そこから出入りする。例に引いた中学生のように、2階の窓から飛び降りてもなんともないくらいの積雪になるのだ。
 こうた雪国の暮らしを、島村は珍しそうに眺めている。雪国の冬を堪能して帰京した島村は、翌年の秋に三たび駒子のもとを訪れ、妻子を忘れるほどの長逗留をする。駒子の許婚であり葉子の恋人だった行雄は死に、行雄を中心にした駒子と葉子の三角関係はすでに解消していたものの、まだ2人のあいだにはかすかな緊張がある――そんななかへ分け入り、駒子と関係を続けながら、島村は思いつめたような哀しみを抱えている葉子にも惹かれていた。誰も彼もが実らぬ恋に苦しみ、孤独な心をまっすぐに見つめているからこそ、この小説はしみじみとした美しさを持っているのかもしれない。

〈家々の庇を長く張り出して、その端を支える柱が道路に立ち並んでいた。江戸の町で店下と言ったのに似ているが、この国では昔から雁木というらしく、雪の深い間の往来になるわけだった。片側は軒を揃えて、この庇が続いている。
 隣から隣へ連なっているから、屋根の雪は道の真ん中へおろすより捨て場がない。実際は大屋根から道の雪の堤へ投げ上げるのだ。向こう側へ渡るのには雪の堤をところどころくり抜いてトンネルをつくる。胎内くぐりとこの地方では言うらしい。〉

「ほんとうに人を好きになれるのは、もう女だけなんですから」と切なく迫ってくる駒子に、島村はようやく、これ以上駒子から愛情を搾取するわけにはいかないと気づく。帰京しようと決めた日、島村は近くにある縮の産地を見に行き、そこの町通りに並ぶ「雁木」に目を止めた。
 雁木とは、豪雪地帯特有の「冬期用通路」(特に新潟県と青森県に多い)である。母屋の道路側に小さな屋根をつけたした、いわばアーケードのようなもので、新潟県上越市の高田地区が発祥の地と言われている。高田の雁木は日本一の総延長を誇り、戦前までは約18kmに及ぶ雁木が儲けられ、いまでもその一部が残っている。
 雁木には母屋の屋根の一部として吹き下ろした「造り込み雁木」と、母屋の外部にひさしを付けた「落とし込み雁木」の2種類があり、「造り込み雁木」は平入屋根の連なる軒並みに、「落とし込み雁木」は妻入り屋根の連なる軒並みに造られた。図に示した高田の雁木は、「造り込み雁木」の代表例である(「落とし込み雁木」は同じく新潟県の長岡市が発祥地)。いずれも通りに面した家々が自宅の間口分だけを作るため、ひとつひとつは短いが、隣り合う雁木同士を連結させるので道なりに家がある限り、途切れることなく続いた。庇を支える前面や側面の柱の間には、吹雪や豪雪を考慮して「囲い板」や「落とし板」などと呼ばれる板が取りつけられた。

 豪雪地帯の町通りは、降り積もる雪と屋根から下ろされた雪(雪山)で瞬く間に白く埋め尽くされる。雁木の下を歩くと、2階まで積もった雪で日の光さえ射さないほどだ。雪の上では、電線の高さ付近を人々が行き交っている。機械による除雪が広まるまでは、雪国の人々は自分たちの私財で雁木を作り、通りの向こう側へ出るためのトンネルを随所に儲けて、安全な交通と日々の生産活動を守っていたのである。
 こうした雪国の工夫から生まれたのが、1949年に東京の人形町に出現した日本特有の片面型アーケードである。雁木をヒントに生まれた片面アーケードは、雪国に根ざす人々の、道行く人への真心から生まれた歩道だと言えるだろう。


文 倉林 章

参考文献
日本文学全集「川端康成(一)」 川端康成 集英社
現代日本文学アルバム「川端康成」 吉田知子ほか 学習研究社