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寄りたまえ上がりなんしと新世帯 『紺屋高尾』

 友人は新婚ホヤホヤ。たまたま彼の家の前を通りかかったら、「素通りはないじゃないか。ちょっと寄っていけよ」「そうですとも、上がってくださいな」と呼びとめられた――タイトルに引用したのは、そんなシーンを詠った川柳である。この句のポイントは、「上がりなんし」という妻のセリフにある。そう、彼女はカタギ出身の女性ではない。「なんし」という言葉が示す通り、元遊女なのだ。遊郭から身請けされたばかりで、骨まで染みた遊女言葉が、まだ抜けきらないのである。
 この遊郭なるところは、一体どんな場所だったのだろう。遊女の憧れだった「結婚」を中心に、彼女たちの生きた遊郭という世界を探ってみよう。

 古典落語に『紺屋高尾』という演目がある。一介の染物職人が、当代きっての名花・高尾太夫に惚れて惚れて惚れぬいて、ついに彼女と結婚するまでを描いた超純愛ストーリーである。ざっとこんな話だ。
〈花魁は大名道具といわれ、庶民には手の届かない高嶺の花だった頃。紺屋(染物屋)の職人・久蔵は、ある日突然、寝こんでしまった。

「おめえ、どこが悪いんだ」
「それが親方、どこも悪かねェんです」

 親方がどんなにすすめても、久蔵は粥も薬も受けつけない。そこで医者に診てもらうと、なんとこれが恋の病。先日の吉原見物で、高尾太夫に一目惚れしてしまったのだという。だが吉原での初指名料はざっと10両、対して久蔵の年俸はたったの3両だった。とても無理な話である。医者はこう言って久蔵をなぐさめた。

「もし3年辛抱して9両貯めたら、もう1両都合して高尾に会わせてやろう」

 これを聞いて、久蔵の病気は全快。せっせと働いて本当に9両貯めたとあっては、医者と親方も協力しないわけにはいかなかった。約束通りもう1両足してやった上、羽織からふんどしまで面倒を見てやって、久蔵を田舎のお大尽に仕立て上げて吉原へ連れて行った。
 無論、目利き揃いの吉原では久蔵の正体などひと目で見抜かれてしまうのだが、それでも相手に合わせるのがプロである。高尾太夫は久蔵を本物の上客として扱い、こう問い掛けた。

「今度はいつ来てくんなます」
 『次はいつ来てくれるの?』はこの業界では挨拶みたいなものである。久蔵もお大尽になりきって「じゃあ、3日後に」とでも答えれば良かったのだが、そこは純な小市民。丸3年経たなければ無理だと、ベソをかきながら、これまでのいきさつと自分の正体を告げた。この正直さと誠実さに、高尾はコロリと参ってしまった。虚飾と打算で塗り固められた遊女の世界で、彼女は初めて本物の恋を知ったのである。やはり男は金でも顔でもない。ハートなのである。

「わちきのような者でも、嫁にもらってくんなますか」

 もう、なますもおひたしもない。夢見心地で帰った久蔵は、さっそく親方に報告するのだが、親方は笑って取り合わなかった。『卵の四角と傾城(遊女)の誠があったら晦日に月が出る』のだから、当然、久蔵の話を信じる者など一人もいない。だが翌年の年季明けに、高尾は本当に久蔵のもとへやってきた。周囲はびっくり仰天、そして盛大な祝言となった。
 やがて久蔵はのれん分けをしてもらって、紺屋を開いた。高尾も懸命に手伝ったので、「あの店のおかみさんは有名な高尾太夫なんだってさ」と口コミが広がり、店は大繁盛。高尾も子供を三人産んで、84歳の天寿をまっとうしたという。〉
 
高尾は遊女でありながら幸せな結婚ができたし、久蔵は貧乏職人でありながら高級遊女を女房にできた。寄席の人情噺としてだいぶ脚色されているだろうが、これは十分なリアリティを持った夢物語だったのである。




 さて舞台となる吉原が誕生したのは、江戸時代初期である。徳川家康が娼家を認可し、元和3年(1617)に、唯一の官許遊郭として吉原遊郭の設置が決定された。ちなみに無認可の娼家は岡場所、陰茶屋などと呼ばれ、深川をはじめとして100ヶ所くらいあったとされている。遊郭には、廓(くるわ)という別名がある。廓には囲いという意味があり、その名の通り、吉原も周囲を掘割(通称・お歯黒どぶ)で囲ってあった。遊女の逃亡を防ぐ一方で、遊郭に逃げ込んだ罪人を探しやすくするためでもあったという。いずれにせよ、吉原は、市民から隔離された街だったのである。


 吉原への入口は、たったひとつしかない。それが大門で、すぐ内側には「四郎兵衛会所」と呼ばれる詰め所があった。3交代の24時間体制で、吉原の内と外を見張っていたのである。ここをくぐると、3つのランクに分かれた妓楼が所狭しと軒を並べていた。

 娼家のランクは、籬(まがき)と呼ばれる格子窓によって区別される。上から下までの全面格子がついていれば惣籬(大見世)で、全面を4分割したうちの上1つに格子がなければ半籬(中見世)、下半分だけが格子になっていれば惣半籬(小見世)である。遊女たちは太夫・格子・端(1750年以降は座敷持ち・部屋持ち・新造。最高級の「呼び出し」は並ばない)の順でここに座り、顔見せ(張り見世)をしていた。客は格子の外から、遊女を物色してまわったのである。

 続いて内部を見てみよう。江戸期の吉原は2階造りまでで、外観は規定を守って比較的地味だったものの、内部は風流でしゃれた造りになっていた。入るとまず帳場があり、その奥に楼主やその家族が住む内証があった。遊女がいるのはかん部屋と呼ばれる共同部屋で、ここで睡眠や休憩(支度・入浴・睡眠を含めて7時〜12時まで。遊女は徹夜が常)を取っていた。高級になると独立した部屋(本部屋)が与えられ、家具調度も良いものが揃えられた。だが中級までの遊女たちには専用の部屋がないため、広間を屏風などで適当に区切って床入りをしていたらしい。人気の店には廻し部屋という殺風景な部屋が並んでいる場所があり、遊女は一晩に何人もの客を取って、彼らの部屋を順番に廻っていたという。
 過酷な労働でありながら、睡眠時間は少なく、食事は1日2回が基本である。しかも朋輩と始終競争させられ、必要なものはさらに借金を重ねて買わされる――これでは、いくら若くても身体が持たない。病没する遊女が多い中、結婚までこぎつけることができたのは、本当にほんのひと握りだけだったのである。

 引用してきた作品では遊女を温かい眼差しで見つめているが、もちろん、遊女を嘲笑する作品も数多くあった。だが遊女にとっては、嘘も涙も手練手管も、生きるための仕事のうちである。かわいさ余って憎さ百倍かもしれないが、遊女がひとつの「職業」として確立していた当時は、退職さえすれば普通の市民に戻ることができた。普通の市民ならば嫁入りをしてもおかしくないし、元遊女だと差別を受けることもない。だからこそ彼女たちは、「結婚」に賭けたのではないだろうか。

 遊女にとって、結婚は人生最大の夢だった。貧しさ故に売られ、厳しい条件下で働き、やがては無縁墓地に葬られるのが関の山の彼女たちである。身請けされるのでも、無事に年季まで働くのでも、どちらでも良い。この苦しい勤めが終わったら世間並みの女の幸せを手に入れたいと、切実に願っていたのである。
 最盛期には、6000人の遊女を擁していたという吉原。ここのはずれにひっそりと建つのが、20000人の遊女が葬られている浄閑寺(通称・投げ込み寺)である。この寺には、はなやかで悲惨な生涯を送った遊女たちの供養塔が、今もわびしくたたずんでいる。


文 倉林 章

参考文献
遊女の江戸 下山弘 中公新書
江戸古川柳の世界 下山弘 講談社現代新書
天保の江戸くらしガイド メディアファクトリー