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そこにあるから登るんだ 『日本百名山』

 中高年の登山ブームは、とどまるところを知らない。去年は朝日新聞社から『週間日本百名山』が発行されて評判になった。登山愛好者のバイブル『日本百名山』に登場する山々を紹介していくシリーズで、雄大な山の写真はもちろん、高山植物や野鳥の紹介、登山ガイドに付近の観光案内までついていて、読み応えのあるシリーズである。
 もちろん、倉林家も定期講読をした。私と弟はつきあいきれなくなってリタイアしたのだが、倉林家はもともと山好きファミリーで、私たちも数年前までは、両親と一緒にあちこちの山を制覇していたのである。だが、体がもたなくなって、早々に引退してしまった。なんせ、ペンより重いものを持たなくなって久しい私たち(いまはパソコンがあるからペンも持たない?)である。中高年の恐るべきパワーには、とてもついて行けない。
 そんなわけで父と母は、休日になると仲良く登山に出かけていく。ねぼすけの私たちが起きる頃には、既にどこかの登山道を歩いているし、長期の休みには山小屋に予約を入れて、泊りがけで縦走に行くほどだ。
 今回は、日本の中高年をトリコにしてやまない山の魅力を、その名脇役である山小屋を中心に検証してみたい。

 現在の登山ブームは、第二次登山ブームである。第一次は1950〜1960年代に起こった。火付け役はもちろん、深田久弥の『日本百名山』である。山岳雑誌に掲載されてから信奉者が続出し、完登を目指す愛好家が増えて行ったらしい。だが、俗に「完登には暇・金・体力の三拍子が揃っていなければ無理」と言われている深田百名山である。第一次ブームを背負っていた青年たちには、体力はあっても、暇と金がなかった。仕事は忙しいし、子育てもある、そんな世代だったからである。
 それから40〜50年が経ち、かつての若者達は中高年と呼ばれる世代になった。仕事も子育ても終わり、いよいよ暇と金が出来たのである。つまり90年代なかばから現在まで続く第二次登山ブームは、第一次ブームを牽引してきた若者たちが山へ帰ってきた図であり、それに釣られて山の魅力に目覚めてしまった友人・知人たちの図なのだ。
 残る問題は体力だが、装備類は以前とは比べものにならないくらい軽くなったし、山までの交通の便もすこぶる良い。ふもとの旅館に前泊し、翌晩は山小屋に泊まる予定でゆっくり登れば、初心者でも無理なく山頂を極めることができる。下山してから温泉にでもつかれば、疲れも取れて言うことナシなのだ。

 さて、山小屋を見てみよう。
 宿泊施設としての日本最古の山小屋は、立山(富山県)にある「立山室堂山荘」である。日本の三大山岳信仰のひとつ、立山講を支えてきた山小屋で、国の重要文化財に指定されている。

〈立山はわが国で最も早く開かれた山のひとつである。縁起によれば、大宝元年(701年)佐伯有若が越中の国司として在任中、その子が白鷹を追うとて立山の奥深く入り、弥陀三尊の姿に接して随喜渇仰し、慈興と号して立山大権現を建立したという。…やがて私たちは室堂に着く。この建物は元禄8年(1695年)金沢藩主の造営というから、現存の日本最古の山小屋だろう。〉
 切妻造りの山小屋「立山室堂山荘」は、加賀藩奥山廻役の拠点としてだけではなく、登拝する信者たちを導く役目も担っていた。それから300年、立山室堂山荘はいくたびもの修理や再建を経て、いまも室堂山荘の隣で、登山者たちを見守っている。

 このまま、目を付近の山小屋に転じてみよう。登山ブームによって、日本の登山人口は1000〜1500万人にまでふくれあがった。それにともなって、山小屋もだいぶ様変わりしてきた。ブーム以前の、私が登っていた頃の山小屋は、早い話が寝るだけの場所だった。布団はじゃりじゃりと砂っぽく、混雑時には交互になって寝る。食事はごはんと味噌汁、それに肉や魚の缶詰がつく……というのが定番だった。
 当時の私たちは、粗食も寝床のお粗末さも登山のうちと大して気にとめなかったが、いまはそうはいかない。レジャーの一環としての登山が定着してからというもの、装備には機能と同時にファッション性が求められるようになり、山小屋にはアメニティが求められるようになった。水も電気も乏しく、資材や食材はすべてヘリコプターかポーターに頼って運ばなければならない山小屋ではあるが、登山者を大部屋にぎゅうぎゅう詰めにしたり、ふりかけごはんを出したりしていたのでは、すまなくなってきたのである。
〈その日は五合目付近にある清岳荘に泊まった。…釧路山岳会の両君は、肩を越すほどの大リュックを背負っていたが、その中には、私たち親子のための食糧や嗜好品のほかに、寝袋やビールまで用意されてあった。〉

 テント泊をする登山者なら、今でもこのくらいの荷物を持って行くだろう。だが、山小屋に泊まるのなら、非常食以外の食料の心配はない。なかには、ふもとの食堂など足元にも及ばないほどの、豪華なコース料理が出る場合もある。もちろん、需要があっての、供給の変化だった。
 TVや雑誌での紹介を見て、「これといった趣味があるわけでなし、それならひとつやってみようか」で山登りを始めた登山者たちは、第一次のブームを知っている登山者たちと違って、「不便を楽しむこと」がなかなかできない。味噌汁の味つけひとつにもあれこれとうるさく、山小屋の主人も最初はあきれたという。だが、これも時代の流れである。料理への文句どころか、2000メートル級の山に雨具も持たずにやってくる登山者まで出てくるとなると、山小屋の主人も頑固親父ではいられなくなった。山小屋も、熾烈な競争原理の働くサービス業の場となったのである。

 山小屋は、登山道の入口にある大規模な施設をのぞいて、ほとんどがログハウス形式の木造の丸太小屋である。木のぬくもりに魅せられて、最近では個人で山麓に土地を買い、日曜大工で建てている例もある。だが山小屋の場合は重機が入れないため、ヘリコプターで資材を運び、人力で梁をあげる。それも70年代に入ってからで、ヘリコプター導入までは、最初の荷揚げそのものから人力だった。どの山小屋も、それこそ血のにじむような努力の果てに、ようやく建てられたものなのである。
 だが近年、こうした山小屋の改修が盛んになってきている。修繕目的の改修もあるが、なかには大部屋を個室に仕切るための改修もある。登山者全員で大部屋に雑魚寝というスタイルが、敬遠されるようになってきたのだ。ベニヤ板をはめるだけの改修もあるにせよ、山小屋が持つ独特の雰囲気が次第に薄れ、ホテル化がはじまっていると言えるだろう。
 便利に、そして快適になること自体は、歓迎すべきことである。だが便利で快適になり、食事が豪華になっていくその裏側で、山の自然に悪影響が出ていることも考えておかねばならない。現に、登山者が残していくゴミや山小屋が上手に処理できなかった排水のせいで、大腸菌が発生し、利用できなくなった水源がいくつもある。

 登山は、苦しい分だけ楽しい。夜の山頂で見た、手を伸ばせば届きそうだった満天の星空を、私は一生忘れないだろう。こうした感動をみんなで味わうためにも、マナーと節度を忘れてはならない。山は、後世にも受け継がれていく共有財産なのだ。高山植物をその場で愛でることができるようになり、山小屋の不便さを楽しめるようになれば、全員が上級のクライマーになれるのではないだろうか。


文 倉林 章

参考文献
日本百名山 深田久弥 朝日文庫
信仰の山 吉村迪 東京新聞出版局
週間日本百名山 朝日新聞社
続・週間日本百名山 朝日新聞社