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文句があるならベルサイユへいらっしゃい『ベルサイユのばら』

 漫画家・池田理代子の名作、『ベルサイユのばら』を御存知だろうか。18世紀後半に起こったフランス革命を背景に、りりしい男装の麗人・オスカルを主人公として、日本の少女漫画史に金字塔を打ち立てた一大歴史ロマンである。TVアニメ化・舞台化と、各方面で絶賛されてきたこの作品が、宝塚歌劇を中心に、またもやブームになっている。
 近衛連隊総司令官・ジャルジェ将軍の六女として生まれたオスカルは、父の後を継ぐべく男子として育てられ、14歳で近衛連隊に入隊する。彼女の役目は、同じく14歳で隣国・オーストリアから輿入れしてきた、マリー・アントワネットを警護することだった。ここにオスカルの幼なじみのアンドレやスウェーデンの貴公子フェルゼンなどが加わり、はなやかなベルサイユ宮殿を舞台に、様々な人間模様が繰り広げられていくのである。
 さてタイトルに引用した「文句があるならベルサイユへいらっしゃい」は、作中で最もインパクトの強い(笑)セリフのひとつである。アントワネットに取り入るポリニャック夫人が、オスカルの世話係・ロザリーの母親を馬車でひき殺した挙句に、投げつけていくセリフだ。ではこの高慢ちきなお招きに乗じて、ばらの咲き乱れるベルサイユ宮殿へ足を踏み入れてみよう。

「すごいわ! すごいわ! ベルサイユの街! ベルサイユの宮殿! さすがだわ! オスカルお姉ちゃまの住んでいるところは違うわ!」
 パリから西へ約20km。赤坂にある迎賓館のモデルにもなったベルサイユ宮殿は、ルイ14世〜16世までの絶対王政時代の栄光を象徴する、壮麗な建物である。
 ベルサイユはもともと沼地と森が広がる荒涼とした土地だったが、ルイ13世が狩猟用の館を建てたのをきっかけに、ルイ14世が大幅な増築を重ねて宮殿とし、1682年に、着工からおよそ20年の歳月を経て完成をみた。最盛期には36000人もの職人と軍人、6000頭の荷馬が投入された、世紀の大工事である。図(1)がベルサイユ宮殿全景、図(2)・(3)はその詳細図である。


図(1)

図(2)

 工事で特に難航したのは、水利だった。セーヌ川から領地内の丘まで水をくみ上げ、それを8kmもの水道を通して、ベルサイユへ引いたのである。ル・ノートルが設計した広大な庭園には15万本の樹木が植えられ、セーヌ川から引いた水を大運河と名付けた中央の池を通して、庭園中に広げた。この庭園は典型的なフランス庭園で、自然を人間の芸術に服従させる西欧思想がよく表れている。宮殿と同じく左右均衡(シンメトリー)の幾何学的なデザインで造られ、四季の名を冠せられた泉が美しさを添えている。
 宮殿の内部装飾は、複雑華麗なバロック様式に統一されている。宮殿入口から入ってすぐに目につくのは、二階部にコリント式の列柱を配した王室礼拝堂である。ここに限らず、床の模様には必ずといっていいほど幾何学模様があしらわれ、「なにもかもシンメトリーで息が詰まりそう」ともらした貴婦人もいたらしい。ルイ16世とアントワネットの婚礼もここで行われた。


図(3)

 王の居室は図(3)に示した部分で、ビーナスの間をはじめとする6部屋からなる。アントワネットほか歴代3人の王妃が住んだ王妃の居室は、それとシンメトリックな位置にある。王妃の寝室ではルイ15世をはじめ、19人の王子・王女が誕生した。
 宮殿内で最も有名な鏡の間は、間口10.5m、奥行75m、天井高12.5mの巨大な回廊である。庭園に面して17の窓、反対側には578枚の鏡を張った17の偽窓があり、豪華な雰囲気を作り出している。ブルボン王朝時代からレセプションや接見に使われ、第一次世界大戦の調印式場ともなった(ベルサイユ条約)。いまでも国賓クラスのレセプション会場に使用されている。
 ルイ14世〜16世時代のベルサイユ宮殿は、一般人への開放も行われていた。王威を国民に示すため、見苦しくない格好をしていれば、だれでも自由に出入りすることができたのである。日曜日には6000人を超す人々が宮殿に押しかけ、王族の食事や着付け、化粧、出産(アントワネットの第二子以降は取りやめ)などを見学していったらしい。
 ちなみに、ベルサイユ宮殿に限らず、この時代の王宮にはトイレが数えるほどしかない。数千人の貴族が住むベルサイユでは、ほとんどの人々は庭園の樹木などのちょっとした物陰に隠れて用を足していたらしい。その匂いを隠すために香水が発達したといっても過言ではないだろう。
 ルイ14世がパリからベルサイユに宮廷を移すと、貴族たちもベルサイユに移り住むようになった。ジャルジェ家も含め、多くの貴族が宮殿の近くに館をかまえ、宮殿内にもそれぞれの控え室を持った。ルイ15世の時代には、ベルサイユ宮殿に定住した廷臣・職員は10000人にも達したという。そのうち貴族は約3000名(近習見習いの子供150名を含む)で、王とともに狩りや観劇、舞踏会、賭博などの遊びにふけった。
 こうした怠惰な風潮はルイ16世の時代になっても改まらず、逆にどんどんエスカレートしていき、やがてフランス革命の勃発を招く火種になっていったのである。

 「王妃さまは、プチ・トリアノン宮においでになるそうでございます。そのおともに、わたくしとポリニャックさまの2人だけが、参ることになりましたの」
 ルイ15世の時代には、オペラ劇場やプチ・トリアノン(ルイ15世が寵姫ポンパドゥールに与えた離宮。のちにアントワネットが愛用)が新たに造られた。ルイ16世の時代は財政難から大きな工事は行われなかったが、アントワネットがプチ・トリアノンの一隅に田舎家風の別荘群(ル・アモー)を建てている。
 アントワネットはベルサイユ宮殿の儀礼や束縛から逃れるために、プチ・トリアノンとル・アモーに入り浸った。プチ・トリアノンは大小のサロンに食堂を備えた小さな離宮だったが、アントワネットは自分の趣味に合うよう、補修を繰り返した。特に庭園とル・アモーは、幾何学的なフランス様式の宮殿や本庭園とは対照的に自然美を強調して作らせ、得意になっていたのである。
 ル・アモーは、8軒からなる藁葺きの百姓小屋だった。外観を貧乏たらしく見せるためにわざと壁に破れ目を作ったり、屋根板を外したりしている。だがこうした人工廃屋の内部には、暖房もあればビリヤード台もあり、豪華なソファーまでがしっかり完備されていた。国民が飢えに苦しんでいるなかで、アントワネットは165億円もの巨額を投じて「お百姓さんごっこ」に興じていたのだ。これでは、人心が離れるのも無理はない。
 やがて、時代は急展開を迎える。
 度重なる戦争や贅を尽くした宮廷生活のために、ブルボン王朝の財政は悪化する一方だった。打開策を練るために開かれた三部会(僧侶・貴族・市民の3階級からなる議会)をきっかけに、市民は民議会を結成する。そして弾圧を加える国王に対して、一斉蜂起した。1789年の7月、政治犯を収容していたバスチーユ牢獄が襲撃され、ここにフランス革命が始まったのである。
 オスカルはこの戦いでアンドレとともに命を落とし、それから4年後の10月、アントワネットも断頭台の露と消えた。『ベルサイユのばら』は、激動のヨーロッパを、それぞれの立場で激しく生きていった人々の物語である。少女漫画だからと食わず嫌いをするには、あまりにもったいない名作だ。



文 倉林 章

参考文献
ベルサイユのばら愛蔵版 池田理代子 中央公論社
ヴェルサイユ宮廷の女性たち 加藤俊一 文芸春秋社
ブルーガイド パリ 実業之日本社